昭和五十四年三月八日
御理解第八節 朝の御理解
「子供の中に屑の子があればそれが可愛いのが親の心じゃ無信心者ほど神は可愛い信心しておかげ受けてくれよ」
信心しておかげを受けて呉れよ、とここで教えてあるのは親の心をわかっておかげを受けてくれよ、と言うことですよね。親は屑の子ほど可愛いと言う。切なる親心。それをまず説いておられますね。人間でも自分の子供の中に屑の子がおればそれが可愛いと同じに天地の親神様もまた無信心者ほど神は可愛いと仰せられている。その親心をわかっておかげを受けてくれよ、という事だと思う。只おかげ受けてくれよじゃない。只信心して、とこうおっしゃるけども只拝んだ、参ったと言うだけではない、ね。その前にちゃんと親心が言うてある。その親心をわかっておかげを受けてくれよ。今まで氏子信心しておかげを受けてくれよ、という言葉だけで頂いたんですけれども、これは親心がわかって信心、そしておかげを受けてくれよ、とそういうおかげを頂いた時に初めて言うなら広がりに広がる、と言うかそれが徳になりあの世にも持っていきこの世にも残しておける、と言うような広がりに広がるお徳になるんだ、おかげになるんだと、ね。だからその親心、切なる心をわかって信心にならなければ私はいよいよ広がりに広がる、と言う事にはならないと思う。
昨日は北九連の婦人会は発会した。五,六十人の予定であったのだが、百数十人の人が集まって大変盛大であった、と言う事である。ここで婦人の総代さん方が綾部さんを含めて五名ですか、行かれたそうですが、婦人の方達の二人のお話しを頂いて大牟田のご信者さんという方のもうそれこそもう実感をそのままにも聞く者をして素晴らしいな、素晴らしいなと思うて聞かせて頂くような話しがあった、と本当に合楽的でした、合楽的なおかげを受けられた話しでした、という話しが昨日総代会でしたから、そのままこちらへ四人総代さん方が見えとりましたので、あちらの話を聞かせてもらいましたら、その話しがありました。
二十年間の信心、二十年間の日参を続けておる。それは主人に女が出来た、ね。もう初めは突き殺してやりたい程の思いでおったけれども、段々信心をさせて頂くうちに、ね、本当に主人がお世話になってすみません、ありがとうございます、と心から言えれるようになった、と言う事がありがたい事でしょうが、というて、ま、訴えるように話された、ということです。もうこれは、ふしぎなふしぎな心です。それこそつかみかかってでも行きたいような相手に対して本当に主人がお世話になってすみませんと、有り難うございますとお礼が言えた。も、その事が有り難かったとこう言うね。そしたらその相手の方が変わられてもう主人を寄せつけんようになったと。おかげで主人も諦めて今は一緒に朝参りが出来る程におかげを頂いた、という話しを、ま、数十分間にわたって自分がおかげを頂いてこられた、ま、要点要点をピシッととらえての発表であった、とこう言うのです、ね。
確かに神様へ向かう信心させてもらうとですね、心が豊かに大きくなる、ね。そして主人だけが悪いとじゃない。やはりそんなら自分もおろそかであった、悪かったといったような事がわかってくる。そしてむしろ相手の方がお礼が言えれるようになってくるとそれが有り難いというそういうところを力説された、という事でございまうけれども、これは只信心しておかげを受けたわけです、ね。だから只信心しておかげを受けた、じゃなくてその前程にありますところの親心を切々に、ね、親心、というものはこんなもんだよと。天地の親神様の心というものはこんなもんだよと、ね。屑の子を持って屑の子程可愛いというその切々心。そこに私は信心しておかげを受けただけではそういう素晴らしい心も開けるしおかげも頂けるけれどもそこはそれまでだと思うですね。
もう本当にその事によって天地の親神様の深い深いご神慮がわからせて頂いた。神愛がわからせて頂いた、ね。だからそこんところがわかるとそれから先の問題が一つも問題が問題でなくなってくるですね。
神様の心がわかる、ね。神愛が神愛と悟れる。只一生懸命お願いをさしてもろうてならおかげを頂いた。奇跡的なおかげを頂いた。自分の心も段々神様へ向かうにしたがって言うならつかみかかりたいような心がお礼を言うような心にもなってきた。だけではこれは私はお徳にならない、と思うね。言うなら信心しておかげを受けただけである。けどもここで信心して、と言われるのは親心がわかっての信心に段々なってくれよ、と言う。なら親心がわかって、と言うのはもそれこそ憎うてふり上げる親の手はないように、ね、ここをわからせたいばっかりここ一つがわからせて頂いたら世間の者が人間が言うておる難儀とか、困った、と言うようなことはなくなってくる。一切の神愛の表れ。
あの時あげな信心しておかげ頂いたけんまたおかげを頂こう、と言うようなもんじゃなくてね、神愛を悟り神愛をわからせてもろうて、信心しておかげを受ける。それが私はお徳を受けるんだと。今日の八節になってくるんだと思うです、ね。
昨日も総代会で話しが出とりましたが今度何かの時、ここの何ち言うたかね、大変今ご比礼の立っている杷木じゃなかった。何じゃったかな。宮野か。その宮野教会の信心が何かの機会に取り上げられる、ということですが、昨日私そんなこと初めて聞きましたけれども、とにかく二言目には秋永先生、二言目には合楽の信心、ということが信者さんのどの発表を聞いてもある、という事ですね。
だから合楽的に言うならば、ま、言うなら合楽の信心をアレンジして言うなら宮野の教会にそれを表しておられる一人の信徒会長さんの言うならば素晴らしい信心を昨日聞かせて頂いたんですけれども、朝大変朝起きの出来ない方だったそうです。けれども三時半に教会に行かれる。そして三時半から四時までを、いわゆる教会内外のお掃除をなさる。そして四時から暁の研修というのをなさる、ね。言うならば御祈念前に四時から五時までの御祈念なら御祈念までいわゆる信心研修をなさる、ね。そこに言うならば年寄りも青年ももう皆がその信徒会長さんについていく。その信徒会長さんの、言うならばよりどころと言うか、信心のいくら頑張ったところで頑張ったところでおかげにならない教会もある。それこそ御結界に、それこそ死守される。もう座りぬいて修行されて、とうとうかつれ死にされたと言ったような教会すらある位、言うならば焦点をまちがえていくら頑張ったってダメだ、ということ。
それをなら合楽の信心を焦点にしてそれを言うなら宮野ふうに、それをまた一般とそういう熱のこもった、ね。三時半に教会に出る三十分間の御用をさせてもらう清掃する。御用させてもらう、ま、ぼちぼちみんなが集まってくる。そしてそれからまた五時の御祈念まで暁の研修と名づけて研修がある。もうそれを楽しみに皆が集まってくる。それは大変なやはり御比礼らしいです。だから今度はその宮野の教会のそういう信心を取り上げて研修する、と言うならば誰かそこに中心になるそういう熱のある信者が表れなければダメだ、という事。
先日松日教会の時に、これも秋永先生が話しておりましたがある教会の総代さんが私め方にはどうしてこげん信者が集まらんじゃろか、という話しをされた、ね。総代さん方、どうですか。朝参りがありよりますか、と。総代さん方が一同で、ね。教会の大発展を祈り願っておられますから恐ろしくあっていない。そういうことは、も言わなかっただろうけれども、ま、合楽の総代さん方としてみればそういう行き方というものがです、日々お取り次ぎを頂いて信者一同の上にまた教会のあらゆる行事の上に真心もってお取り次ぎをなさる、ね。お取り次ぎを願われる。そして頂いて帰られる。
私はその事を昨日総代さん方に、だからあなた方がここでお取り次ぎを願われるあの言葉のことをくり返しくり返し御祈念の時には願われなければ、祈っておらなければ、只願いの言葉、お取り次ぎの言葉だけに終わったんではもう味、と言うか神様一心は届かないよ、と。お取り次ぎを願う総代さんがその事を本気で願う気にならなきゃいけないよ、と。願うからにはそのための言うならばその宮野の総代さんで言うならばそのためのそうした生々とした修行が出来ておられての教会愛に燃えられるということが宮野の教会の発展だ。しかも焦点が間違えてない。おかげを頂いている合楽の信心を焦点にしての信心の研修であり修行である、ということになるね。こういう行き方でいくなら必ずおかげは頂くことでしょうね。ご比礼は輝くでしょう。ですからそういうなら研修の中にです、合楽で言われる、ね、その事に対して合掌できれると言うだけではなくて、ね、つかみかかっていきたいような人の事に対してでもです、お礼が言えれるような心が開かれる。もう一生懸命の二十年間も日参をして熱心に願いよると心が開けてくることだけはまちがいない。けれどもいわゆるもう一つその向こうに一つの焦点がある、と言う事をが今日の御理解ですよね。
親神様のお心というものはこういう切々な問題、その親心をわかってその難儀に取り組むとそれはもう難儀ではない。叩かれれば痛いけれども神様ありがとうございます、と神様にお礼が言えれる心が生まれてくる。相手のその人につかみかかっていきたいというようなのにお礼が言いたいだけではなくて神様にお礼が言えれる、ね。その時私は初めて親の心がわかって信心しておかげを受けただけではない。そのおかげの内容にはお徳を受けた。言うなら御理解八節である。広げに広がるおかげ、と言うのはそこんところがもう一押しされての言うならば信心でなからなきゃならない。
そりゃもう本当にすさましいと言うかそのもうそれこそ燃えるような信心をしておかげを受ける教会に御比礼が輝き出す。そういう信者が一人おると教会全体がなってくると言うけれどもそれだけではない、ね。言うならば親心がわかっての信心でないと何かの機会にまたストッとする、というような事にもなりかねない、ね。ですから今日私は皆さんにね、親の心というものをまず先に説いてある。そして信心しておかげうけてくれよ、とおっしゃるから只の信心、親心がわかっての信心という事を今日は聞いて頂いたですね。どうぞ